本格的な洋酒の国産化

日本洋酒需要の突破口はブドウ酒で、10年ごろから始まった醸造は、日本人向けの甘口に改良を重ねることにより、22年スペインの万国博には蜂印が金メダルを獲得するまでになった。

この市場を拡大したのが赤玉で、発売は明治40年ごろである。

「朝夕これを飲用せば……長寿すること疑いなし」という宣伝は、やはり薬としてのイメージをもっていた。

1本38銭。

問題はウイスキーで、莫大な設備費と長期の醸造期間を要する。

明治末年にはアルコールに香料をまぜた混成ウイスキーも出ているし、さらに大正9年にはハイボールのカン詰「ウイスタン」も登場したが、不評に終った。

ウイスキーといえば輸入品と相場がきまっており、年間200万円にも及んだ。

愛国心から黙ってみていられなくなった鳥井信治郎が、天王山のふもと山崎に土地を買いこみ、本格的な醸造に着手したのが大正13年。

粒粒辛苦の末昭和4年に「祖国のいみじき香りをば豊かにたたえた」白札サントリーを完成した。

1本4円50銭。

このときの工場長竹鶴政孝が、のちのニッカウイスキー社長である。

洋酒事始

ウイスキーを「ウエスケ」と言った話は、舟橋聖一の『花の生涯』にもあるが、シャンパンが「サンパン」、ジンジャーエールが「ジンジビア」という調子が、およそ幕末から明治にかけての洋酒の呼び方だったのである。

そのころ洋酒といえば高価な薬品あつかいだった。

リキュールの国産が4年、ジン、ラム、ベルモットが9年であるが、メーカーは薬種商で、おもなとくい先は居留地の外人連であった。

スタンド・バー第一号は、銀座尾張町の「函館屋」だ。

間口は1メートルそこそこ、長いカウンターと左右の棚には舶来の洋酒がびっしり並んでいた。

むろんホステスなんてものはいない。

13年ごろには欧化主義の影響でブルジョワ階級の間に洋酒熱が高まったが、一般にはまだ洋酒の味は理解されなかった。

少しずつ値上がりし続ける郵便

同6年に、市内半銭のハガキが登場、「郵便切手の模様あるところに先方の住所氏名を記すべし、模様へ墨をつくるべからず」というぐあいであった。

のんびりした時代のこととて郵便囲碁をはじめた者あり、せっせと往復して一局2年のレコードをつくった。

開業年度に早くも56万通に達した書状は、29年に1億を突破、それまでに許可された新聞雑誌、現金封入、書留などを加えれば4億8,000万通にのぼる。

現金輸送の配達夫はよく強盗に襲われたので、六連発を小わきに抱えていた。

航空郵便は大正8年に最初の試みあり、国内の実施は昭和4年、海外は昭和2年の発足である。

サービス大いに向上したが戦争で中断。

のち24年郵政省が生まれたころは、駐留軍の検閲やら、郵便物の遅配・忘失が続出し、監査制度の強化でようやく旧に復した。

つぎに来たものは値上げにつぐ値上げ、「年賀状出せば昔の米五升」という庶民の嘆きがようやく一段落したのは26年末。

当時は書状10円、ハガキ5円だった。

コンピュータは兵器開発のため

アメリカでの計算機開発の歴史は、業務計算や科学計算のためであった。

しかし、現代のデジタル・コンピュータがつくり出されたきっかけは、第二次世界大戦における兵器の開発のためだ。

つまり、弾道計算である。

空中戦の時代が到来し、高速度で移動する目標に対空砲の狙いを定めるには、素早く弾道を決める弾道表をつくる必要があったからだ。

アメリカ陸軍兵器部は1935年弾道計算の研究部門を設立し、1938年にはミサイル研究所と名を改める。

所長はゾーニングで、彼は科学諮問委員会を設立すると、後にNASAの創設者となる空気力学者のドライデン、各種電子管の発明者であるアルバート・ハル、数学者のフォン・ノイマンといった鐸々たるメンバーを集めた。

デジタル式計算機の完成

1939年、スティビッツは電話の交換技術者ウィリアムズの協力で複素数計算機すなわちリレー式補間演算機を完成し、これは後にベル研究所の”モデルⅠ”リレー・コンピュータとして世に知られるようになる。

これの機能は基本的な四則演算に限られていた。

電気と機械による計算方法に関して、ハーバード大学大学院生ハワード・エイキンは新しい概念を思いつく。

担当教授の紹介でIBM社の技術チームと協力してつくられたのが最初の自動汎用デジタル計算機で、1944年のことである。

これがバベッジが苦労を重ねながらも完成できなかった解析機関とほぼ同じ構想の”MARKⅠ”だ。

機械式の限界とデジタル式の登場

イギリスのジョージ・プールは1848年に『論理の数学的解析」を著わし、1854年には『論理と確率の数学的理論の基礎をなす思考法則の研究』という大著を発表する。

これが、現代のコンピュータの基本である二進法の研究であった。

十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、計算機にはさまざまな改良が加えられたが、歯車を利用した機械的なアナログ方式では避けられない精度の低さが、次第に目立つようになっていった。

アメリカのスティビッツは、不要になった電話用のリレーを自宅に持ち帰り、1937年に最初の電気的な回路をつくった。

その後、彼は勤務していたベル研究所でリレー式コンピュータの設計に全力を注いだ。

いつの時代も天才の傍には天才がいる

「怒りっぽい天才」といわれたバベッジのよき理解者がエイダであった。

彼女は情熱の詩人バイロン卿と妻アナベラのひとり娘で、15歳のときにはすでに抜群の数学的才能を発揮し、バベッジの解析機関を見学している。

彼女は、このときに解析機関の機能を理解し、いかに素晴らしい発明をしようとしているかを認めている。

エイダは27歳のときに、バベッジの解析機関についての解説を書いている。

母親の数学的才能と父親の美しい文体を受け継いだものといわれ、彼女の努力のおかげでバベッジの研究がわかりやすくなった。

バベッジが時代を越えた解析機関を構想した背景には、時代の要請とライプニッツ以降の数学の発展があった。

早く生まれすぎた天才がいた

バベッジの計算機はまず、演算の対象となるすべての変数とほかの演算結果で得られたすべての数値を蓄える貯蔵部がある。

そして、演算するための数値をつねに送り込む作業部があり、この処理には演算の種類を指示する演算力ードと、演算の対象となる特定の変数を指示する変数カードの2種のカードを必要とする。

バベッジがこれらの機械を機関と名付けたのは1765年にジェームス・ワットが実用化した蒸気機関が念頭にあったにちがいない。

現代のコンピュータのように、蒸気機関があの時代の夢を託されたものであったからだ。

バベッジは時代よりもいささか早く生まれすぎたのだ。

初期のコンピュータは歯車仕掛け

計算機の歴史には異端の天才も登場する。

イギリスのかなり豊かな中産階級出身の「怒りっぽい天才」といわれたチャールズ・バベッジである。

彼は1822年に階差機関の構想を発表する。

翌年から政府の資金援助を得て製作を開始するが、6桁までの数値を取り扱えるヒナ型を組み立てた1833年に中断する。

この後を受けたのがスウェーデンのシュウツで、1854年に完成し、ロンドンで公開する。

これは4個の階差と14桁の数字を取り扱い、しかも計算した数表を印書できるようになっていた。

もちろん、歯車で動く。

さて、バベッジである。

1833年に階差機関の製作を中断した彼は、解析機関の研究を1871年に亡くなるまで続けることになる。

これは汎用性を備えた計算機で、後にハーバード大学とIBM社が共同開発した”MARKⅠ”という機械にきわめて近い考え方を採用し、現代のコンピュータの原型ともいえる。

コンピュータのための歯車

ドイツのテュービン大学の天文学、数学、ヘブライ語の教授であるウィルヘルム・シカルトが1623年9月20日付で天文学者のヨハネス・ケプラーへあてた手紙には、加減算を完全自動、乗除算も部分的に自動的に行なえる機械の概要とその説明が書かれているという。

この機械はドイツを舞台にヨーロッパ諸国を巻き込んだ30年戦争のために現存せず、しかもシカルトの一族はこの戦争で流行したペストのために亡くなっている。

パスカルの加算機は、シカルトのもののように乗除算といった非線型の演算ができないという点では遅れたものであった。

乗除算が完全にできる計算機は、ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツが1673年に発明する。

この機械は、パスカルの加算機と同じ機構をもつ加減算を行なう部分と、乗除算を行なう部分の2つが結合されていた。

彼はこの機械を動かすために「ライプニッツの歯車」と呼ばれる有名な歯車を発明している。

ライプニッツの計算機に対する功績は、計算作業の自動化の必要性と可能性について考えて、計数型の計算機をつくり、さらに仮説を検証するために計算機が使えるという着想をもっていたことである。

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